Because
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4月28日 AM03:00
ピアノ・マン
独白:閉店後カウンターで片付けをする鏡夜
レイジさん。
貴方が、あんな顔をするなんて。
わざとだと云ったけれど、断られたとき、
ひどく残念そうな顏をした自分に気がつかなかったんですか?
あれは、演技じゃなかったはずだ。
あまり見せることのない、あなたの落胆の表情。
あんな顔をするなんて……。意外だった。
思いもしなかった。
でもあの男は、その表情に気づきもしなかった。
あんな顏をさせておいて。
本気で愛してはいない証拠だ。
身体がもたらす熱を、愛だと錯覚しているだけだ。
愛していると云う資格などまったく無い。
まったく相応しくない。
ずっとそばで見てきた私だからこそ、
微妙でわすかな表情の違いにも気がついた。
私こそが、貴方に必要なのに。
何故、私だけを選ぶのに迷うのだろうか。
どれだけ私は待ったことだろう。
代用品でなくなる日を。ずっと待っていた。
長い間、ずっと。
暗い闇の中で、狂いそうになる貴方をずっと支えてきた。
空気のように貴方を見守り、影のように寄り添って。
砂時計の砂のように静かにゆっくりと正確に、
とろりと過ぎゆく確実な時間を刻み、待っていた……。
それを。
いきなりその砂時計を乱暴にひっくり返し、全てを無駄にした、あの男。
あれほど精密に作り上げた私たちの時間を、
無造作に奪って行くなど、そんなことは許されていいわけがない。
あの男。
シックスティーズのバンドマン。
ベーシスト。
マック。
仮に相手がナルセさんであれば、私は喜んで身を引き、諦めだだろう。
なのに何故、あのベーシストなのか。まったく分からない。
何故、そんなにも固執するのか、理由が見当たらない。
そんなにもあのときの快楽が、熱が、忘れがたいと云うのか。
私との、蜜な快楽の時間よりも。
私に彼方を貫く方の資格を与えてくれれば、
同じ快楽を、熱を、貴方に充分与えることができるのに。
あの男に私は勝てる筈なのに。
こんなことになる前に、私が誘惑しておくべきだった。
あの日。あのクリスマスの日。
いとも簡単に、あの男は落ちただろう。
あの夜、寂しげにしていた。何故、そのまま帰らせたのか。
貴方を抱く前であれば、それは簡単だった筈なのだ。
前であれば。
今頃、あの男は私に夢中になっていたはずだった。
それは今さら後悔しても遅いことだ。
詰めが甘かったと云うことか。でも油断したわけじゃない。
音楽をやる人種には、少し弱いところがある。
あの男は、曲の基盤を奏でるベーシストだ。
私に少しの憧れが、ある。
シックスティーズは老舗の店の中でも、最も好きな場所だ。
セブンレイジィロードも、もちろん私のお気に入りだ。
良いバンドなのだ。悔しいが良いベースなのだ。
あの音楽がなくては、人生は色褪せる。
さっき。
不意にもたらされた、貴方の落胆の表情を見たとき、
突然、胸の臓器をいきなり素手で掴み引き千切られたような、
恐ろしく乱暴な激痛が、心に走った。
酷く残酷な衝撃に、驚きで激痛の叫び声は出ず、
止血は間に合わず、血はとめどなく流れ続けている。
いつもの冷静さなど保てないほどの動揺。
ポッカリと無残に大きく空いてしまった心の場所。
血だまりはいつまでも乾かない。
どうしたらいいんだ。
まったく、「俺」、らしくない。
気取られるのを恐れ、混乱したことを口走るなんて。
失態だった。
もし体だけだというなら、そんなに続くわけがない。
もう時間の問題のはずだ。そうだ。
言われた言葉を、信じるべきだ。
それとも。
それとも他にも、何かあるというのか?
俺と貴方の間には、もちろんある。
身体だけではない、確かなものがある。
だから焦ることはない。
もう少し待ってくれと云ってくれた。
ただタイミングを計りかねているだけならば、待てばいい。
貴方を信じて待つことは、今迄とずっと同じで変わりない。
けれど。
時計の砂は、本当はとっくに落ち果てていたのかもしれない。
または、落ち果てることはないのかもしれない。
ただ、幻のようにありもしない時間を刻む砂でしかないのかもしれない。
俺は貴方の影、表も裏も仕事上のパートナー、右腕、駒。
そして、闇だった一部。
貴方は闇から少しずつ離れようとしている。
だが、危険な仕事の部分を切り捨てたとしても、
裏の仕事を続けるならば、切っても切れない縁になる。
いつも貴方と一緒に同じ深淵の闇の中で呼吸してきた。
落ちそうで堕ちてはいけない闇の深淵で、危うくバランスを保っていた。
今さら貴方を失うのは、恐ろしくてとても怖い。
貴方は、おそらくそれを知っている。
だからこそ、俺を無下には捨てられない。
切ることはできない。
見た目よりも繊細で、優しくて慈悲深い。
なのに、いつでも表面を冷たく軽く、自分の心さえ偽ってみせる。
そして、何より傷つくことや、大事なひとを失うことを深く知っている。
俺が足枷なのだとは、思いたくはない……。
レイジさん。
貴方を誰よりも知っていることが、俺には辛い―――。
photo/真琴さま(Arabian Light)