What's Going On


REIGI




口うるさい鏡夜を撒いて、深夜の街角を歩くことに成功した。
街をこの足で歩くのは、随分と久しぶりだ。
このままタクシーを使わずに歩いて家まで帰ったら、
きっと鏡夜は、氷の女王の彫刻さながら冷やかに静かに怒るだろう。
おれの家で待ち構えているかもしれない。

見た目と違って、氷の女王の内は熱い炎。
だが外の氷は溶けない不思議な構造になっている。
ブリザード並みの氷のベッドに寝ることになるんだろうな、今夜は。
身体がチリチリと痛み、凍傷になるのが分かっていても、そのまま姿を消してしまった。
そんな気分だったのだ。
ひとりで歩きたいという気分。

今夜は、とびきり空気が冷たい。

キンキンに冷えたスピリッツのようだ。
キリリとしていて爽やかだが、ガツンと効いてくる。
いつだったか同じそんな夜があったことを思い出した。
あれは、ずいぶん遠い昔。
臆病者のおれが最大の決心をした日ではなかったか。
おれは寒い時に限って、大事な事を決めたがるらしい。
そういえば、一昨年のクリスマスもそんな気分だった。

本当に寒い。肌が切れそうなくらい凶器な気温。
歯の根が合わずに震え出しそうだった。
その様子が妙なのか、少し周りの視線も感じる気がする。
自意識過剰の気のせいか?

寒さのせいなのか空がやけにきれいに澄んでいる。
時々起こる都会の奇跡だ。
深い夜空には、オリオン座がきれいにその存在を示していた。


オリオン座。


なんとなく小学生くさい響きだ。
ベテルギウスとか、リゲルとか星の名前を習ったような気がする。
そういえば、小僧が寝物語で勝手に話したことの中に、オリオン座の話があった。

あいつが高校生の頃、バスでいつも一緒になる近所の綺麗なお姉さんと、
バスを降りた家までのわずかな時間、真正面にあったオリオン座を見ながら
歩いて帰ったのだと言った。
それは初恋か淡い恋の話しかとからかうと、
小僧はそんなんじゃないけど、と少し照れて笑った。

あいつは昔から年上趣味だったんだなとその星を眺めながら思う。
おれとセックスすることになったのは、本来あいつの意向ではなかったと
思っていたが、案外そうでもなかったのかもしれない。

最近、おれはやけに空を仰ぐことが多くなった。

月がキレイだの、雲の切れ間の月の光が幻想的だの、
いちいち見つけた景色や情景を、小僧がメールして寄こしていたからだった。
夜桜が綺麗だとか、夏の夕暮れの匂いだとか、気温のことだとか、天気のことだとか。
シックスティーズへの行き道と帰り道、よっぽど暇らしかった。
電車に乗っていたり歩いていたり。
田舎者だからかよく歩く。

それにしても、何故あいつはいちいち正しい手紙のような
季節の挨拶を初めに書いて、メールを送ってくるんだ?
初めは妙なヤツだと思った。
メールは面倒な挨拶を省き、用件だけを気兼ねなく送れるクールなツールだからいいのに、
そんな長文を最初に書くなら意味がない。
第一、用件にたどり着くまでちんたらと読んでいては時間がかかってイライラする。

だがそこにある決して秀逸ではない季節の様子の文章を読むと、
おれはふと、普段は見もしなかった外の風景を見たりするのだ。
いつもにらめっこをしている携帯の画面から、風景に目を移す。

それは少し新鮮なことだった。

だからその癖は、小僧と決別してからも直らなかった。
おれは時折、空や窓の外を眺めて、
その景色や空気や温度や音や手触りを、五感で感じてみる。
必然的にその時、不本意ながら思い出すのは小僧のことだった。
それは不可抗力だ。だってしょうがない。

パブロフの犬のようなものだろう。
何も小僧のことを想って思い出すわけじゃない。
条件反射なだけだ。小僧は付属品だ。

今夜は小僧なら真っ先にメールしてきそうなオリオン座だった。
その星座を表す星の数全てが、くっきりと主張していた。
そういえば、ギリシア神話のオリオンは暴れ者だ。
おれの心情をかき回し、好き勝手に暴れてくれる小僧とどことなく似ている。

あいつはきっとまだシックスティーズにいて、この夜の物語を知らないだろう。
いや、もしかしたらもう店を出たかもしれない。
サワとどこかで会うために。
今夜のシックスティーズにはサワがいたが、ステージが終わる前に出て行った。

もしも。

もしもまだ小僧との関係がおれにあったなら、知らせてやったのに。
おまえの初恋のオリオン座がきれいに見えると、たわいのないメールを打ってやれた。

時々決別したにも関わらず、小僧は以前と同じように季節のメールを
寄こしてくるが、おれが返信することはまずなかった。
メールはしていいと言ったと言うが、勝手にあいつが言ったことで、
おれは覚えていないし、そんな約束をした覚えもなかった。
第一、そんな非常識なことねぇだろ、と思うだけだ。
もう、関係は終わったのだ。

それなのにどういう了見なんだ。
だいたいが、あいつが勝手におれとの関係を自ら切ったのだ。
それがメールをしてくるなんて。
どんな神経だ。ナイロンザイル並みなのにも程がある。
あれでノミの心臓だとかぬかすのだから、無神経で図々しい。

いつ諦めるかと呆れながら傍観していたが、
あまりの返事のなさに落胆したのか少しづつメールは少なくなっていった。
さすがのあいつも空気が読めたらしい。

そうなるとおれは逆に、ごく気紛れに返信してやった。
最近はそのことを覚えたのか、メールの数が減少した。
作為を垣間見るので、それからはあまり返信しないようにしている。
退かれては押し、押しては退き。

おれは、何のかけひきをしようとしているのだろうか。
自分でもどうしたいのか、よくわからないことがある。

ただ時々、おれは知らずの内にシックスティーズへ足を向けることがある。
ナルセを観に行くのではなかった。
ただあの無神経なベース弾きの、意外と繊細で器用な指先を。
ストイックで直向きな音を。姿を。仕草を。声を。
ただ見聴きするためだけに、寄ることがあるのだ。

ステージの上の小僧は、陶酔しているような恍惚とした動きで
頭を上下に揺らしながら、ひたすらに曲と歌に合せてベースを弾く。
時折、目を閉じて上を仰ぎ、緩やかに膝でリズムをとる。
愉しんで弾いているのだと、伝わってくる。
それは曲目によるのだが、ときどき小僧がやる仕草だった。
おれはそれを眺めるのが、嫌いではなかった。

ベースはその曲のリズムの土台だ。
誰にも流されないで、自分の仕事をひたすら寡黙に続けるだけだ。
低音で目立ちはしない。主張することもない。常に脇役どころか、通行人Aだ。
客には目もくれないで、ただ演奏する。
客もベースの音など、聴いてはいない。
ベースのやつの名前さえ、知らない客がほとんどだろう。

だがベースの音がないと、音楽はとたんに方向を見失う。
それはその音が消えない限り、それが必要だったと気が付くことは不可能なのだ。


なまえ。


小僧は、生意気にもいつか名前を呼べと言って去っていった。
そうすれば、戻ると。ただ名前を呼べばいいだけなのだと。
たったひとり、その名を呼んでくれるまで、
誰かと共有するのはイヤだと言い、おれから去って行ったのだ。
引き留める理由もないので、そのまま受理してやった。
そして名前を呼ばれるまで、いつまでも待ち続けると、約束すると言った。
何を勝手な冗談じゃないと思うが、同時に正反対の考えが脳裏を過る。

ただひとこと、おれがその名前を呼べば、すべてが解決するだろうか。
全てがうまくまわり始めるのだろうか。苦しみや悩みが終るのだろうか。
名前の主は、その瞬間に腕を伸ばしておれに触れてくるだろうか。
あの快楽の感覚が、戻ってくるだろうか。
名前さえ、おれが呼んでみれば。

それとも、もう自分の言ったことを忘れてしまっているだろうか。
その線も捨てきれない。すぐに意見を変えるヤツだった。
耳に入ってくる最近の様子ではそうとしか思えなかった。

アルーシャのサワとはよく会っているようだ。
そういや、またナルセにも手を出したらしかった。
手近すぎるだろうと呆れ果てた。
ナルセは未遂と言ったが、あの淫乱のことだからやったのかもしれない。
あれも浮気症が完全に治るとは思えない。
小僧はそんなで、おれのことはもうすでに忘れていて、
新しい相手を探しているのだ。

おれは忘れていることを安堵し良かったと思うだろうか。
それとも、おれはまだ、あの熱を欲しがっているだろうか。
あの赤裸々な敬遠したくなるような行為を、本当は求めているだろうか。

だが、そうした時に鏡夜は?
鏡夜はどうする?

おれが小僧の名前を呼んだら、キョウはどうなる。
いつも後ろに下がって控えている役目所だ。
きっとキョウは、小僧がいても構わないと云うかもしれない。
恐らくそう言うだろう。そういう男だ。今までだって、そうだったのだ。
小僧のように、共有は嫌だなどと傲慢なことを言ったりはしない。

だが。
もう鏡夜を正式な恋人にすると宣言したあとだから、
今までとは、少々勝手が違うかもしれない。
今度こそおれが殺される可能性も捨てきれない。
鏡夜は怖い男だ。見た印象よりずっと悪魔なのだ。

小僧は、どっちかを選べと言った。
二股がイヤで、おれから去っていったのだ。
おれは鏡夜を見捨てる気など、さらさらないというのに。
恋しくてあいつの名前など呼ぶはずもないのに。

だがもし小僧を選ぶのなら、それを尊重しなければならない。
一応の礼儀だ。おれは真面目な男だからな。
もっともほとんどの礼儀をかく小僧に、礼を尽くす道理はないが。

どうしていいのか、まだおれにはわからない。
その判断がつかない。
おれは優柔不断過ぎて気が滅入るほどクソ真面目過ぎる男だ。

だがすぐにダメだと絶望して死にたがるような時期は終わったはずだ。
おれの望むことはこの世界のどこにもないが、
死なないで生きて行こう。そう思い始めている。
どんな状況になっても、おれには鏡夜がいるのだし。
鏡夜はおれを裏切らない。むしろ、それがコワイのだが。
だがキョウに殺されるのならいっそ楽だという気がした。

一番良いと思う解決法はある。
小僧がおれを諦めて、クラブアルーシャのサワとくっついてしまえばいいのだ。
そうすれば、おれの重い荷であるこの自爆スイッチを簡単に捨てられるだろう。
サワは今、あいつにご執心だ。あいつの何が良かったのだろうか?
不思議な趣味としか言いようがない。
自信家に見えるから、落としたいだけなのかもしれないが。

もうセックスはしたんだろうか。

すでにしたのなら、サワは思いがけずあいつにもっと執着するだろう。
あいつのセックスは、まぁ大抵が手放せないことになる。
おれがそうだったように。

おれの心まで欲しがらなければ、それで万事うまくいったはずだ。
それなのに自爆スイッチを、あいつは勝手におれに手渡して行った。
おれの意志も聞かずに、おれのことなどお構いなしに。
相手の気持ちを推し量る余裕のない、身勝手でわがままな暴君のような男。
ただ見た目はそう見えないので性質が悪い。

しかも自分自身もヘタレで小心者だと思い込んでいる。
生きて行く上で一番強みになるのは、決断力と実行力と諦めだ。
ただそれが出来るからと言って、良い人生だとは限らないが。

自爆スイッチを持ったまま優柔不断なおれは、弱い人間だ。
捨てるか押すか。おれにはそれしか選択がない。

自分の気持ちを偽っているわけではないが、
ただ、本当にどうしていいか分からないと思う。
心の声が、まだ自分には聞こえない。聴くつもりがないのかもしれない。
または心の声など何もないのかもしれない。

こうして歩いて、風景を外気を感じるたびに途方に暮れる。
小僧とはたまにこの辺りの道を歩いた。
シックスティーズから、ピアノマンから、あいつの自宅へ行く帰路。
大抵は車なのだが、シックスティーズの前は道幅がなく、
近くのパーキングに停めることが多かったので、面倒なときは歩いた。
小僧が故意に遠回りすることもあったが、おれは付き合った。

あいつは息を白くして、コートを着て行けとうるさく言った。
腹が空いたと言えば、おれはクラブサンドを作ってやった。
面倒臭くて地に足のついた、庶民的な一年足らず。

地面を踏みしめて、足の痛みを感じながらこれは苦痛だと思い、
それでも痛みはじきに慣れるとどこかで思った。
歩くのは、意外に楽しいと思い始めていたのかもしれない。
結局は、無理だったのだが。

ただ、本当に今はどうして良いかが分からない。
それだけなのだ。
わからない。



ふいに、夜空にいるエトーが呑気に声をかけてきた。


よぅ、兄弟。

どうだい、最近。

おまえに何か起こったか?



♪ What's Going On……


マーヴィン・ゲイの名曲を演奏する黒人のストリートバンドだった。
こんな時刻に、What's Going Onとはラテンで呑気な連中だった。
ボーカル以外も全員が愉しそうに演奏している。
コーラスも悪くないというより、かなり良い。少し足を止める。

周りにも人だかりができて、夜の街は時間も関係なく賑やかだ。
シックスティーズのように高い金を払わなくても路地のライブ演奏は無料だからな。
好い演奏だった。黒人の本物のリズム。ソウル。遺伝子がそうさせるのか。
曲調は明るいが、本当はシビアで暗い内容の歌詞。
マリア様、世の中には悲しいことが多すぎる。
だが、踏まれて虐げられても強く生きてきた過去の彼らが歌った
切実に歌い語りかける魂の音は、いつも湖の深みに優しく響くのだ。

ブラックソウルは、心の隙間に入り込むから厄介だった。
そういえば、ナルセは店を休んでいた。
スター不在のステージ。
まったく客を舐めている。

そしてまたあのバカは、あの曲でのパフォーマンスをまだやっていた。
おまえのすべてが好きさと、サワのことを指さして。
しかもMCでは、意味深なセリフまで恥ずかしげもなく言ってのけた。
あの調子だと、もうサワとは寝たのだろう。
本当に軽いヤツだ。軽蔑に値する。
まだおれと決別してから数か月程度しか経っていないのに。
自分であれだけおれに約束を要求しておきながら。
サワと寝たとは。

そんなことは分かっていたはずだった。
本当は、おれのことなどもう忘れているのだ。
あいつはいつも物事の切り替えだけは、早かった。
おれはそのスピードに大抵ついて行けなかった。
もうついて行くつもりもないけどな。

思い出すと腹立たしい。
どうしておれの周りは、お気楽で軽薄なバカばかりなんだろうか?
もっともスーパークールな鏡夜から見れば、
おれもそのバカな一員と同類に見えているのだろうが。
別にサワと小僧が寝たことなど、どうでもいい。
おめでとうと祝電でも打ってやろう。


そんなことよりも大事なことを思い出した。

氷のベッドが、高熱でとろける秘策を考えながら帰るのが、
今、いちばん重要で大事なことだという気がした。

陸に上がった人魚は歩けない。
初めての素足には血豆ができて、限界なのだ。
痛くて辛いのはもういい。血が流れ出す前に。
もう地面から足を離そう。
きっと、そうするべきだ。


「タクシー!」


これできっといくらか悪魔の温度が下がることが期待できるはずだ。



photo/真琴 さま

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