邪 悪 な 純 粋

<1>

「彼」に会ったのは、運命だった。
その瞬間を、俺は忘れたことはない。
だからいつも俺は、まず自慢げにそのことを「奴ら」に語ってやるのだ。

俺はその流行のカフェで目的の方法を探してサーフィンするつもりだった。
俺に友達は一人もいなかった。学校でも誰も俺には近づかない。
容姿は醜く、頭も良くない。でも誰にも苛められたりはしなかった。
苛められていれば、まだ人との関わりがあって良かったのにとさえ思うほど、
誰も俺に関心はもたなかった。
俺は、存在しない人間なのだ。
おそらくそれは俺がどうでもいい、汚らしい人間だからだ。
俺の体は汚らしかった。
自分でも触ることさえできないほどに。
そんなふうに、毎日が苦痛だった。


だからついに俺は、自分を終らせることを考え付いた。
死のうと思ったのだ。自殺の方法と知識の検索。
自宅のマシンには里親の監視ガードがついているので、あまり大胆なことはできない。
そこで思いついたのは街のネット・カフェだった。
カフェへ行くことは、本当は学校では禁止されていた。
流行のカフェでは有名なハッカーチームなどがたむろしていて、
一般人の俺はいつも近寄りがたい雰囲気をもっていた。
でももう死ぬのだからそんな遠慮はどうでも良かった。

俺は思い切ってかなり高レベルなカフェを選んだ。


「クリムゾン・キャッスル」

この辺では一番有名なオフネットカフェだ。
カフェはどこもオンラインが主流だが、
有名な店は、ハッカーやチームの溜まり場になっていて、
ネットを介することなく人が大勢交流するため、オフライン・カフェとも呼ばれていた。

でも、考えが足りなかったことに気がついたときは遅かった。
この「城」に入るには、特別な入場パスが必要で
普通のカフェのように簡単に登録できるというものではなかった。

俺などの一般人は、門前払いだったのだ。

カフェの店員はあからさまに侮蔑の目で俺を見て
虫でも払うような態度で俺はここには入る資格がないことを告げた。
そこで死ぬほど恥かしい情けない思いを味わい、
今にも窒息して倒れるかと思った、そのときだった。

その入り口で、「彼」に出会ったのだ。


「どうした 素人さんが紛れ込んだか? どうしたアンタ 顔色 悪いぜ?」

店員は異常なまでに緊張した表情で、その声の主に向き直った。
そして俺がこんなところにいることを、犯罪さながらに詫び、
汚いゴミを出すように俺の襟首を素早く掴んだ。

「待てよ 乱暴するな 彼は俺が招待するよ パスを発行してやってくれ」

俺はそのとたん、ビップルームのお客様と化した。
信じがたいことに、店員は誰一人、俺を無視したりしなかった。
それどころか、最高のサービスで俺をもてなした。
そして周りの客の一部は俺に親切に接し、
残りは羨望と嫉妬の眼差しで見つめているようだった。
俺は戸惑いながらも彼に礼をいい、彼のことを知らないことを正直に詫びて、
名前を遠慮がちに尋ねた。
でもそんな無礼な俺に、彼はまったく気を悪くするでもなく、
気にしなくていいと、まったく偉ぶる様子も見せなかった。
それから俺に、ここのシステムについて丁寧に教えてくれた。
彼が誰なのか、俺にはわからなかったが、
回りの反応からすれば、かなりの有名人には違いなかった。
そして人望もあるように見えた。

記憶を手繰り寄せ、思い出す、世間の噂。
気さくで情の深い、ちょっと変ったハッカーがいると聞いたことがあった。
いくつものハッカーチームの集会所をフリーパスで行き来する権利を持つらしい。
そのハッカーは、いまどきマザーBOX生まれではなく、
人の体から生まれたという話だった。確か父親の腹ではなかったか。
それすらも、珍しい話だった。
人腹生まれの人間に会うのは初めてだった。
人の腹から産むなど、野蛮だという意見もあったが、
俺は生暖かい血に覆われて出てくる感覚はいったい、どうなのだろうと考えた。

温かい血の洗礼を享けた、親切で、心優しい人間。
それは確かめるまでもなく、本物に違いなかった。

彼とはそれ以来、何度となくクリムゾン・キャッスル(城)で落ち合い、
頭の悪い俺にも優しく接し、いつも丁寧に教えてくれた。
すっかり親しくなった俺は、自殺関連のサイトを探していると告げると、
彼は俺を見つめて驚き、心底心配そうな顔で何故かと尋ねた。
その顔は、俺に衝撃を与えた。

マザーBOX生まれの人間は本来、表情が乏しい。
驚きも悲しみも喜びの気持ちもあるが、表現力が薄いのだ。
俺も実はその類のうちだった。
でも何と、彼は表情が豊かなのだろうか。
その心配そうな顔を見ていると、俺の方が動揺し、
体のどこかが痛むかのようだった。
人の体から生まれた人間は皆こうなのだろうか。

でもそれよりも大事なことがある。
彼は、見知らぬ俺のことを、心から心配してくれているのだ。
誰もこんな俺になど、かまってはくれなかったのに。
俺は里親からでさえ味わったことのない優しさに衝撃をうけ、
目から涙が自然に溢れ出た。
涙など自分にはないと思っていたのに。
彼はそんな俺の肩を抱いて俺が泣き止むまでじっと、肩や背中を優しく触れてくれた。
こんな俺に彼は触った。
この汚らしい俺に。
その行為は信じられなかった。
俺は汚いから、と体をよじると、彼は穏やかな顔で、
そんなことはない、と、きっぱりいった。
彼の俺を見守るような瞳は、震えが来るほど優しかった。
穏やかな日差しのように、天使のようにやわらかに輝いていた。
本当に、天使のようだった。
いや、天使なのだ。

中には彼のことを悪くいう奴もいたが、それは嘘だと直感した。
心を持っていない者の嫉妬だ。俺は真実を掴んだのだ。
そして俺は彼に今までの辛い人生のすべてを話した。
静かに聴いていた彼が、微笑んで口を開いた瞬間から
俺の世界は一転して変った。
彼が俺に、真実を教えてくれたのだ。
俺が人に避けられる本当の理由はもっと別のことだった。
彼が打ちひしがれた俺に、丁寧に優しく教えてくれたのだ。
俺は少し感受性が強すぎて、他の無神経な奴らとは波長が違うのだそうだ。
だから誰も俺を崇高に思って声をかけられない、触れられないそうなのだ。
俺の心は他の人間と違って、美しいのだそうだ。
繊細で純粋。彼は、俺をそう言った。
俺は、はじめてその真実を知って、目から鱗が落ちるようだった。
俺の世界に光がさした瞬間だった。
俺は人生を終らせる必要はなくなった。
俺は崇高な人間だったのだ。
レベルが違う人間に声をかけられるほど、下等ではなかったのだ。

それからも俺の回りには誰もいなかったが、それでも俺は孤独ではなかった。
俺には憧れの彼がいた。俺の天使で俺の神さま。
彼は頭が切れて、心も俺と同じくらい美しくて、容姿も申し分なく、
特に笑顔なんかは極上だった。
あの笑みは天使のもので、人間であるわけがなかった。
俺だけに、その笑みを見せるときだってあるのだ。
彼に誉められ、微笑みかけられるなら俺は何でもできると思った。
もちろん、思うだけでなく彼のためなら何だってできる。
それから俺は常に彼の噂や話題で持ちきりの掲示版をくまなく閲覧し、
姿を現しそうな時間と場所の情報を掴んでは、
彼が出現するネットROOMに通い詰めた。
運良くそこで彼に会えれば、彼は俺だけにこっそりとウラで語りかけ、
そこで二人だけの最高な時間をもつことができた。
それ以来俺は、彼を探すこと、それを毎日の日課にしていた。
でも残念ながら、直接彼に会うことは、次第になくなった。
なぜなら彼がひとりで外に出ることは、無いに等しかった。
彼は常に彼の才能を妬む、卑しい連中に狙われていた。
でも彼は、なるべく俺に会えるよう何度か外出してくれた。
でもそれが逆に取り返しのつかないことになった。

いつしか恐ろしい目をした獣のような男が、
突然、彼の周りをうろつくようになったのだ。
彼に異常な関心を抱き、彼を四六時中、付け回した。
そんな執拗な男に対しても、彼は嫌がる素振りも見せなかった。
でも本当は、迷惑しているに違いないのだ。
その男は凶暴で、視線で真っ二つにされるのではないかと、
誰もが戦慄したほどだった。
地の底から響くような声で吠え、血が滴るような赤い刺青を顔に施していた。
地獄の番獣と戦った、傷跡のように見えた。
噂では人を何人も殺したということだったが、
そんな人間が今も野放しになっている筈はないので、
あの男の風貌から想像した単なるデマだということは解っていた。
でもそれが本当だと錯覚するほど、その男は恐ろしげだった。
結果的に、俺は彼にまったく近づくことはできなくなった。

ある日、恐れていた真実が告げられた。
彼はその野蛮な獣に、酷く乱暴されたのだ。
彼の身体を、あの男は毎晩のように力ずくで乱暴するのだという。
許せない事実だった。
天使の羽がもがれ、白い肌までも裂かれるような惨状。
その想像に激しく怒り狂う俺を、彼はあわてて宥め、
でも男を許してやってくれと懇願した。
どこまで優しいのだろう彼は。
野蛮で凶暴な獣だが、その獣がいるだけで
彼に邪心を持った人間が近づけないのも事実だった。
あの獣も役には立つ。
彼は役に立つものはとても大事にする。
彼のそんな気持ちを、俺は理解したふりをしたが、
本当は絶対に許さない。
今は叶わないが、いつかあの獣が寝ているうちに首を掻き裂いて殺し、
彼を、破廉恥で陰惨な現状から、救ってやるのだ。
彼さえ望めば、いつだってやる覚悟はできていた。


俺は今までも彼の役に立ったことがある。

それも一度や二度ではないのだ。

<2>

                                        photo/真琴 さま (Arabian Light)